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「神戸で恩返しを続けたい」-北京・ロンドンパラリンピック競泳代表の野村真波さんに聞く

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■学生時代
静岡県静岡市の出身で3人姉弟の真ん中。姉の影響で5歳から水泳を始めたが、週3回の教室が嫌で仕方がなかった。でも母から「小学校6年生まではやり通しなさい」と言われていたので嫌々続けていた。

看護師になりたいと思ったのは覚えていないくらい小さい時から。3人姉弟だと病院に世話になることも多く、「母の力になりたい。母に頼られる存在になりたい」という思いから目指していた。

看護の勉強ができる高校へ進み准看護師の資格を取得。その後専門学校へ進み、バイトや学校が忙しく家に帰らなくなっていった。そのころは自分の好きなことをして充実しており、自分さえよければ良かった。お金がどんどんたまり、父のかっこいい背中に憧れてバイクの免許を取得。「女の子なのに事故でもしたら」と母は許してくれなかったが、ただやりたいことをやりたかった。好き放題バイクを乗り回し、好き放題に生きて家に帰らなかったバチが当たった。

■事故を振り返って
何年たっても事故の話をすると身震いし、怖い。

11月の寒い朝、病院へ出勤する時の事故だった。400ccのバイクにまたがり、前日から雨が降っていて道路がぬれていたのを覚えている。家を出るときに母に「行ってきます」と声を掛けたが、母は私の顔を見ずに「行ってらっしゃい」と言った。その数分後に事故に遭った。今でも母は顔を見ずに送り出したことを後悔し、私は母の心にも傷を負わせてしまったと自分の心にも傷ができた。

大きなトラックがあった、というのが最後の記憶。次に気付いたときは道路のど真ん中に倒れていた。このままでは後続車に引かれてしまうと思い道路脇に寄ろうとしたが右腕が動かなかったので、「脱臼したかな?もしかして複雑骨折?」と考えた。意識もしっかりしているし痛みもなかったので救急車を呼ぼうなんて考えもせず、取りあえず母に謝りたくて携帯から電話した。だがうまく話せなかった。負傷していたのは腕だけではなく、顔面も打ち、顎が脱臼していたので口を開く度に歯がこぼれ落ち、しばらくすると自分の座っている付近が血だらけになっていった。

トラックはいなくなっていた。「ぶつかったことすら気付かないくらい大きなトラックだったのではないか」と警察から言われ、その後も結局トラックは見つからなかった。私が入院中だったので現場検証には父が立ち合ってくれたが、「ここが娘さんがトラックに引かれた場所。ここで、一人で救急車を待っていた」などと聞かされた父はどんな気持ちだっただろう。父も傷つけてしまった。

■右腕切断
5~6時間に及ぶ手術を経て、目が覚めたのは夜中の2~3時。集中治療室(ICU)で目が覚めた私は看護師さんに向かって「私は重症?」と聞いた。2カ月後には楽しみにしていた成人式だった。結局成人式には行けず、ベッドの上でテレビを見て過ごす悲惨な日になった。テレビの中で笑顔を見せる同い年の新成人。その時の自分は顔が陥没して右腕もない。そばにいた父や母に八つ当たりするしかできなかった。

事故後、右腕は筋肉もなく骨もぐちゃぐちゃの状態。タイヤの油や道路の砂がついていて、早く取らないと腕を切ることになると言われていた。朝10時になると看護師がやって来て、たわしで腕をゴシゴシ洗う。手足は縛られ、口にはタオルをかむが、泣き叫ぶ声が病院中に響いて、両親はデイルームにもいられず病院の外に出ていた。食欲も無くなり、歩けなくなり、限界だった。

どうして頑張れたたかというと、看護師の夢を諦められなかったからだと思う。片腕になりたくなかったので病院の先生に「いつ治る?顔も早く直して」といつも話していた。でも両親は先生から「もう限界。娘さんに右腕を諦めさせて」と言われていた。母から「もう頑張らなくていい」と話され、自分から先生に「右腕を切ってください」と言った。その言葉を言うのに何十分もかかった。次の日には手術が行われたが、それから数日間、右側を見ることもできなかった。自分で決めたのに受け入れられなかった。

■神戸や仲間との出会い
たくさんの友人や専門学校の先生が面会に来てくれたが全て断っていた。でも先生から「1分でいいから」と言われ会うことに。「学校を辞めろと言われる」と考えていたら違った。先生は「あなたが毎日泣いている間に私たちは駆け回って片腕でも看護師になれる道を探した。厚生労働省があなたを看護師にすると認めてくれた。私たちには受け入れる覚悟があるが、あなたはどうか?」と話し、一筋の希望が目の前に開けた。

復学するために静岡で義手を作ってくれるところを探していたが、みんなに「神戸に行けば作ってくれる」と言われた。そのときはまだ神戸がどこにあるのか分からなかったが、行くことを決めた。家族もいない土地で半年間入院しなければならず、神戸を嫌いになりかけたことも。

そんな時、声を掛けてくれたのは同じ病院に入院していた車いすのお兄さんだった。気さくに「どこから来たの?話を聞かせて」と言われ、みんなの話も聞くうちに「私は腕一本なくなっただけ。まだ一本ある」と思え た。

■水泳
仲間と車いすバスケットを見に行った時、マシンごとぶつかり、倒れても立ち上がる姿を見て「壁にぶつかっても立ち上がれる人になりたい」と思い、水泳を再開することを決めた。水泳は小さい時に嫌でも逃げなかった習い事。嫌なことやうまくいかずに泣くことはこれからもいっぱいあるからと向き合った。それまではストールや上着が手放せなかったが、それを外して水着を着て泳ごうと決め、外出用の義手を作ってもらった。今では、ずっと嫌だった「フック船長」の義手や家事用の義手、バイオリン用の義手など何本も持っている。

義手をつけてプールに向かったが、駅に着いても片手ではお金が出せない。腕を切ったばかりで、電車に立って乗っているのはすごくきつかったし、利き腕ではなかった左手で水着を着るのはとても難しい。後で気付いたが、プールに行くことがリハビリにもなっていたのだと感じる。それらをクリアしてプールに入ると、無我夢中で泳いでいた。

■復学、看護師として
義手を作り復学したが、大変な毎日が待っていた。先生から「この手(義手)を見て不快に思う患者さんの気持ちを考えたことがありますか?」「一人の看護師になった時、忙しい医療の現場で『私には何もできない』と諦めるより、今諦めたほうがいいのでは」など言われたが、それでも諦めずに頑張った。そのかいもあり国家試験に合格。就職活動は恩返しの意味も込めて神戸で行った。先生からは「あなたは普通ではない。断られて当然。何社も受けなさい」と言われたが、受けた病院全てから合格を頂けた。学校の先生や両親、祖父母もすごく喜んでくれた。

そして、神戸で片腕の看護師生活がスタート。「注射させてもらっていいですか?」「点滴代えさせてもらっていいですか?」と一人一人の患者さんにお願いしたが、誰一人断られることはなかった。それどころか「失敗してもいいから、思う存分やれ」と腕を差し出す人もいて、神戸の方の優しさを感じた。

■北京、ロンドンのパラリンピック
看護師としての恩返しはずっと続けていきたいという思いとともに、水泳でも恩返しをしたいという思いになり、院長に許可をもらった。そこからは仕事をしながらパラリンピック日本代表を目指した。就職して1年後には北京でのパラリンピックが開催され、4位入賞。ロンドンまでの4年間は海外遠征にも行った。同じアスリートだけど、オリンピックとパラリンピックは管轄が違い、パラリンピックはお金がなく、遠征費や水着代も自費なので、つらい面も多々あった。

今だから言えるが、ロンドンに入った時は股関節の痛みから足を引きずっていた。両親にも言えず、注射を何本打っても痛みが引かずにバタフライは予選敗退。試合後メディアの前を通る時には泣くしかなかったが、その後の平泳ぎでは8位に入賞できた。

■今後について
五体満足で産んでもらったのに、自分の身勝手で両親の心に傷を負わせてしまった。「この子のことは一生守る」と心に決めてくれていた両親に、「もう大丈夫、安心して」と言えるようになりたかった。事故後、一生家に引きこもって過ごそうと思っていたが私の親孝行は自立すること。

両親は「神戸でもどこでもいい。自分らしく」と見守ってくれる。私自身もこの神戸で恩返しを続けていきたいと思っている。

■取材を終えて
今も神戸百年記念病院の整形外科で働く野村さん。今後の目標を尋ねると「世界に一本しかないバイオリン用の義手を作ってもらった。発表会の開催が決まっているので、それに向けて練習していきたい。何かにずっとチャレンジし続けていきたい」と笑顔を見せてくれた。今後も野村さんに注目したい。
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